鷹面を被った暗部服姿の少年が火影室に入ってきた瞬間、僕にとってはあまり好ましくない『雑談』に興じていたその場には別の意味で緊張が走った。
数日かけて体にこびりついたのであろう死臭と汚れ。
まさに満身創痍のその彼が、なんとか自力で立っていられるのは瞳に走る切羽詰った感情に拠るものだ。報告を終えて気が抜けたその瞬間に、すぐにでも倒れる危うさがあった。
火影様への道を空けた僕とカカシ先輩の横を通り過ぎて、鷹面はしっかりとした口調で報告を始めた。
彼が先ほどから指の色が白く変わるほどに握り締めているものに視線をやりながら、三代目は自ら下した命の結末を聴いている。
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ツーマンセルで鷹面と行動した鳶面の殉職。
遺体は二度目の襲撃を受けた際に持ち帰ることをやむなく断念。遺品として暗部面だけを選択し、その他は火遁で焼却。
任務はすべて完遂。
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「ご苦労であった」
儀礼的なやり取りの後には、死した者への哀悼の意をこめた沈黙が流れ、鷹面を被ったままの少年の張り詰めた空気も軟化することはなかった。
鷹面が未だ握り締め続けている半分に欠けた鳶面は、その持ち主がさらされた戦闘の激しさ、受けた痛みを物語っており、その場にいる者たちの気分を暗鬱とさせた。
火影様は殉職した鳶面の生前の功績を称え、それはたまたまこの場に居合わせた僕達に聞かせるためではなく、主に鷹面への言葉であったのだろう。最後にこう締めくくった。
「父子二代、鳶面としてフウゲツは里のためによく尽くしてくれた」
「はい」
「お主のことを、誰よりも気にかけておったぞ」
「……はい」
鷹面と数年先輩であった鳶面のふたりが、母親の違う兄弟であることは暗部内でも有名だった。
若くして殉職する可能性の高い暗部の、特に男は、入隊して数年もすれば愛情の薄い家庭を複数持つことがままある。女はその体の機能から多産するにしても自ずと限界があるが、男はその気になれば時期も数も選ばない。もちろん、その後に産まれた『優秀な遺伝子を受け継ぐ次代の希望』達が、多感な成長期過程で何を思い育つのか、それはまた別の話になる。だが、少なくとも金銭的な意味での苦労はないだろう。
それでも彼らは、身寄りがなかったため暗部面の意匠を決める際に「お主は瞳がチャーミングじゃからな」なんて三代目からハイカラなお言葉をいただいた僕より、幾分…いや、随分とましだ。
まるでこの世で一人きりのような雰囲気を漂わせて立っている鷹面は、僕から言わせれば実は全く一人じゃない。
任務に支障をきたす事はなかったものの、鳶面に対して常に硬い応対しかしていなかった鷹面の右手に握られた遺品が、どこか痛々しかった。
半分に欠けた鷹面。
半分しかなかった彼らふたりの血の繋がり。
殉職した鳶面の遺族への保障、年金などは里の管轄になる。遺品も預かろう、と言う火影様に対して、鷹面は「直接私が鳶面の最期を話しに行きます」と答えた。
忍にとっては、時に眉ひとつ動かすことなくなされる命のやり取り。
場合によっては敵の命だけでなく、味方の命だって軽くなる任務もある。
呼吸をするのと同じに、当たり前に真剣な殺し合いが為される中、敵対する者だけが死んで味方は誰一人喪われないなんて都合のいい話は夢物語だ。
そんな中、鳶面のようにその死がたった一人の忍びにでも重い意味を持つ者は、幸せだ。そう、カカシ先輩に写輪眼を遺したうちはの少年のように、いつまででも想ってもらえる者は、例えこの世から消えても、幸せだ。まったくこの世界は命だけでなく、死にもいつだって不公平感が漂っている。
「では」
退出するまでも気丈に意識を失おうとしない鷹面は、火影様の背後に控えていた護衛の暗部によって気絶させられ、強制的に病室に運ばれた。
「私とテンゾウも、これで」
「……うむ」
後に残された僕達も間もなく退出した。
* * * * *
まんまと気の進まない話から逃げられたカカシ先輩は、口元を笑みの形に歪め、いつになく人の悪い目つきをしていた。
建物を出るまでなんとなくその隣を歩きながら、気まずい空気を破ることなく僕も黙っている。
殉職者が出たのでは空気は神妙にならざるを得ない。退出する際にちらりと三代目を窺い見たが、苦悩が深そうなお顔だった。
そもそも、鷹面が入室する前から、火影室に漂う空気は険悪だったのだ。
カカシ先輩は最初から歯に衣着せなかった。
三代目が数枚の見合い写真を出して打診するやいなや、腕を組んで顎をそらした。
『それは任務手当てや指名料はつくんですか』の当てこすりから始まって、『アスマをつくった実績があるんですから、後添いをあと三人ほど見繕ったらどうです。火影様と縁戚関係になりたい家なんて、それこそ探さなくても木ノ葉山の濡れ落ち葉ほどにあるんじゃないですか』ときたものだ。
『お主……その発言は不敬罪にあたるぞ』
火影様の声が険しくなったのを聞いて、僕は内心肝を冷やした。
しかし当のカカシ先輩は里長の不興を物ともしない態度でいる。
いつになく激しい言葉で『見合い』をする意思のないことを示したカカシ先輩の隣で、僕は写真に写った美しい女達の顔を見つめていた。
僕が望んでも得られない場所に、生まれながらにして自己の意思とは関係なく納まっていく彼女達本人に興味はない。ただ……。
「テンゾウ?」
訝しげな視線を横から感じたその矢先のことだった。鷹面が火影室に入ってきたのは。
中断された見合い話からこれ幸いと逃げ出したカカシ先輩は、その背中を複雑な思いで見つめる僕にきっと一生気がつかないだろう。
告げるつもりのない言葉。
でも、いつも通りに飄々とした先輩の様子を見ていたらたまらなくなった。
「どうして見合いが嫌なんですか。もしかして先輩の好きな『イチャパラ』のような恋愛を望んでますか」
言ってしまってから後悔した。声に否定的な響きが宿ってしまったからだ。
恋愛で結婚するなんて、今のご時世では当たり前のことが許されないかもしれない実力を持つカカシ先輩は、意外に思ったのかどう思ったのか、じっと僕の目を見つめてきた。
改めて見直すと、色素が薄くて目鼻立ちも整っていて、本当にきれいな人だ。
この人が手を汚し、血を浴びながら任務を遂行しているのを傍で見ていて知っているはずなのに、汚い現実を前にして「どうして?」なんて無邪気に小首を傾げられると、言葉に詰まるような美しさがあった。
折りしも次代のために子を残せと勧めていた最中に現れた、異母兄弟の片割れ。
この先輩を前にして、火影様だって、大層気まずい思いをされたのに違いないのだ。
先輩の口元が緩んだ。
「見合いが絶対嫌だってわけじゃないよ。でも、忍びである俺が、この世でたったひとりの人を待つのって、そんなに変?」
からかう様に笑いを含んでいる声とは対照的に、先輩の目は少しも笑っていなかった。
火影様だけじゃない。俗な思考で先輩の考えを測ろうとしている僕だって、物凄く気まずい。
「俺の家系は代々一途だから」
父だって、母が死んでからも俺以外の子供を作ろうとはしなかった。
やや誇らしげに付け加えられた言葉は、無神経極まりないものだった。あの鷹面の様子を見ていてすぐ、この発言。
この人の頭脳は些細な全てを目聡く記憶するくせに、繊細な回路には行き着かないのだ。
僕は心の中だけで先輩をなじる。
気づいていますか。あなたが今否定したあらゆる可能性を。多様な人間関係のあり方を。
道徳観念に即した言葉に、人は恥じる。健全な思考、それを誇る態度に僅かな無邪気さという名の悪意や棘を感じつつ、反感を覚え毒を吐き捨てようとも、その前ではやはりどこかひるむ。
白けてしまった僕の感情の根底にあるのは、下衆な下心だ。仮に、カカシ先輩が家庭をたくさん持ったとして、愛人として僕が割り込める余地はあるのかどうか。事あるごとに探っている自分が卑しいことは自覚している。でも、ありえない夢が続くと信じるには、僕の生い立ちは特殊すぎた。自分でも、後ろ向きだとか、暗い性格だと自覚している。
でも心の奥底で渦巻く想いを、自分では止められない。
「先輩も惚れた相手には一途なんですか?」
「え? ……うん」
僕の暗い問いかけがどんな意味を持つとも知らず、純粋で残酷な先輩はこの僕の前でほんの少し表情を緩めた。
既に意中の相手がいるのかもしれない。
自分の気持ちなんか少しも表していない卑怯者の癖に、哀しみが襲ってきた。
「先輩が、一途じゃなかったらよかったのに……」
先輩がみっつもよっつも家庭を持つような節操なしであれば、耐えられた。
訝しげな顔をしている先輩の髪に触れ、常に保ってきた後輩の距離より近づく。
「僕の、愛人になりませんか。先輩」
貴方の持つ一片の愛情を…いや、単なる好意でもいい。それさえ得られれば、多くは望まない。
驚いたのか、動きを止めた先輩の二の腕をつかむ。
「嫌ですか?」
壁とこの腕との間の空間に囲って、真剣な顔で迫った。
「愛…人…? どうして突然。テンゾウ?」
「嫌なんですか……」
「う、ううん。でも」
僕の前で初めて頼りなく震えた唇が、次の言葉を紡ぐ前に強引にふさいだ。
嫌じゃない。嫌じゃないんだ。
なら、くちづけぐらいは許されるだろう。先輩を欲しがる気持ちに歯止めが効かなくなって、その体を喰らい尽くすことになったとしても、永久に、拒絶の言葉なんか言わせるものか。
「先輩……。………………」
……好きだなんて、きっと言えない。
【終】/→『日陰しか知らない』