はじまりを支配した見えない楔を愛と呼ぶなら




殴って犯すだなんてことを。

俺の多分そう長くはない人生の中で、任務ではなく、まさか自発的に、しかも単なる欲情の捌け口とは少し違う冷静な興奮の中でなされる日がこようとは。今この瞬間まで露ほども思っていなかった。

「センセイ。暴れると余計に男を興奮させるってこと、知らないの?」

「畜生! 離せ! 離せ!」

三発以上殴るのは、派手に痕が残るだろうから、この後の諸々を想像するとさすがに躊躇われる。

だってこの人、健全で真面目な、アカデミーの教師だから。前日にはなかった傷が、体の、特に見える部分にあるのは不自然でしょ。

……。

「くっ、あははは、は」

急に笑い出した俺を、部下の元担任で、ついこの間火影様の前で楯突いてくれたイルカ先生が苦悶の表情で振り返る。瞳には先程殴られたときにも見出せなかった怯えがあった。さぞ、狂人に関わってしまった不運を呪っていることだろう。まぁ、何を後悔しても、始まってしまったことはなしには出来ないから、遅いんだけどね。可哀想。

痕が残るといけないから、優しく犯しましょう、なんて。里にそれなりに長くいたせいか、俺の思考も随分と里の常識に馴染んだものだ。傑作だ。

遡るはほんの数分前。

授業後の空き教室で、なぜここにこの男がいるんだ、と警戒する相手に、「最近のアカデミーって、こんな風なんですね」と近づいて微笑んだ。「え? ええ」と取り繕った表情を見せたのは、さすが内勤の忍びで、もしこれが暗部同士だった場合は、無機質な仮面の下に探る瞳を隠し、相手に迎合しない静かな沈黙が流れたことだろう。

社交辞令とはいえ、容易く俺に笑顔を見せたイルカ先生は、これまた少し話すと簡単に隙を見せた。

この相手を選んだのは、特に理由があっての事ではない。

「苛々してるんだよねえ。情を交わしたはずの相手が、もう半年も、俺に会いに来ないから」

俺にとってお前は『お前』ではなく誰かの『身代わり』なんだよと、はっきりと告げておく。後々誤解がないように。

訳もわからず無理矢理の暴力で組み伏せられたイルカ先生は、俺の目的もその行為に準じた精神的支配欲を得るためのものであると瞬時に悟ったらしく、屈辱に頬を紅潮させた。

随分と手ごたえのある無骨で重い身体を意のままにしようとするのは、思ったより骨が折れた。

引きちぎられた腰紐を、この行為が終わった後でまた見て、俺を、思い出すといい。

もはや無言の修羅場と化したその時間を、唐突に破ったのは中忍先生の黒い瞳に映った影だった。

うみのイルカにとって、今この瞬間だけはこの世で一番恐い物は『俺』だったはずなのに。その俺の肩越しに何かを見て、目を見開いた。

そして俺も、強姦の被害者を組み敷いた姿勢で、背後の、その気配に毛を逆立てた。

がしん、と。

間抜けにも側頭部に中忍の蹴りを食らって、拘束の手が緩む。

目の端に、それは綺麗に几帳面にゲートルの巻かれた足が逃げていくのが映った。

だがもうそんなことは、今の俺にとってはどうでもいい。

「……こんな時に限って、何なのお前」

半年振りの逢瀬だった。

何も美貌でこの男を虜にしたつもりはなかったが。こんな鼻血なんかより遥かに酷くやられた傷を見せたことなんかざらだったが。惨めったらしく流れてくる血を乱暴にぬぐい、俺は最愛の男をねめつけた。

男は、テンゾウは、獣の面をつけたままの暗部服姿で、アカデミーの教室の窓から、音もなく侵入してきた。そして血塗れたその足は、場違いさを自覚しているように、それ以上進むことなくそこで止まった。

どちらが獣の気配を濃厚にしているかといえば、それは俺だ。その俺に少しも近寄ることなく、テンゾウは腕を組んだ。壁に軽くもたれた。

「正規部隊なんだから、女の子、普通にいっぱいいるじゃないですか。どうしてそっちにいっちゃうんでしょうねえ」

久しぶりに俺にかけられた声は、暗部面越しにくぐもっていて明瞭ではなく、内容も、俺にとっては優しいものではなかった。

答えない俺を、テンゾウは面の穴の奥に潜む瞳で、じっと見つめていた。

テンゾウが、足を組みかえる。溜息ともつかない、息を吐く。

逃げた彼とは違い、着衣に乱れはなかった俺だが、未遂に終わったとはいえ情事後特有の匂いを纏ったままテンゾウの視線にさらされるのが酷く気になった。俺は感情のままに言葉を吐き捨てた。

「……たまたま、あの男が俺の前で無防備にしていただけの話だ。誰でもよかった。偶然だ」

「へえ。彼を選んだのは、偶然ですか。……信じられないなぁ。本当に?」

「やけに絡むね。急に現れてなんなの」

「どちらにしろ、女となら共有できたものも、男相手だとできなくなりますから。それはもちろん、気になります」

「は。馬鹿馬鹿しい」

「……僕は、真剣なんですけど」

声が少し、低く小さくなった。

決してこちらに近づいてこないテンゾウの足元を見つめながら、先程の衝動的で冷静な唾棄すべき行為を、俺は純粋な被害者である彼ではなく、自分のために後悔していた。

よりによって、何故、テンゾウが俺に会いにきた、こんな日に。

「生粋の正規部隊の人間のことは僕はよくわかりませんが。歪んだ関係は望まないかもしれないですね、あの人は」

俺たちの間に差し込まれた水は酷く冷たい。この時、俺は理不尽にうみのイルカを憎んだ。

「一目見ただけで、何がわかる」

お前は、俺のことでさえ何もわかっていないくせに。

テンゾウの暗部面は揺らがなかった。

黙っていれば永遠にこの場は変わらないような気さえした。

テンゾウは相変わらず、近寄ってはこない。

「何とか、言えよ」

沈黙に焦れて毒づいたら、テンゾウが少し身じろぎした。その様子を見てやっと、やつが生きているということを確認する。

「数年後に、先輩同様、僕も『九尾の狐子』と関わることになっています」

利己的な俺は、『狐子』という単語に反応しながらも、テンゾウの言葉を遮りたくなかったから何も言わなかった。

「それまで、僕は先輩には会いません」

「! どうして?」

「会えないことになってるんです。距離を、置けと……」

「従うのか。唯々諾々と全てに従うのか。俺が欲しくないのかお前。俺は、里抜けだって」

「先輩」

「……」

「過ぎた…話じゃないですかそれは……」

諦めを含んだ声が、全てを物語っていた。

お前は里になんでもかんでも奪われて、捧げて、それでいいの。幼い時の記憶も、自分自身の細胞も、禁欲的にこなす任務の合間にほんの僅かに手に入れていた俺も。奪われている痛みが気持ちよくなっているなんて、被虐的歓びを感じているんじゃないかと疑いたくなるよ。

テンゾウは暗部面をやっと外して、直に声を聞かせてきた。

「長くて、五年。短くて三年ほど。たった、それだけです。それだけの期間です。今、事を荒立てるのは、得策ではないです」

「……どんな顔してるかと思えばお前、面をとっても同じ表情じゃない」

俺の揶揄にテンゾウが再び沈黙した。

「お前、後悔するから絶対に」

テンゾウの表情は変わらなかった。

「俺の足元に跪いて、恥も外聞もなく泣くことになるぐらいなら、今、泣けよ。今、俺の愛を請えよ」

こんなに言葉の刃をヤツの胸に刺し込んでいるのに、まだ、変わらない。

「里に従うふりして、いずれ認めさせて、穏便に済ませたいのは俺のためだって言いたいんだろう。それか、俺が自然に離れていけば、それはそれでいいと、お前そう思っているんだろう。俺はそんなの望んでない。お前が相手をしないなら、セックスだって、やりたくなったら男としてやる」

ようやく、テンゾウの眉が少し動いた。

「先輩らしくない物言いですね」

「俺らしいって何だよ!」

厳しい目をした素顔で急に見据えられて動けないでいるうちにテンゾウが近づいてきた。

「……!」

目の前でテンゾウが膝をつく。

至近距離で視線が合う。

指が伸びてくる。

頬に触れられそうになる。

「な、なに、するの」

俺はその突然の行動に驚きすぎて、無様に震え、後ずさろうとした。

そんな俺の体の横に手をついて、テンゾウが耳元に唇を寄せてきた。

「そんなに彼がいいなら。僕がその男を手に入れてあげますよ。でも、共有は、しませんから」

わかっている。

不本意なことに。

その意味が、テンゾウの言いたいことが、忌避したいことが、わかっていて、そう、わかっていて俺は最初から行動していた。

『女となら共有できるものも、男相手なら出来なくなる』

こんなもとは排泄器官でしかないものに、処女性を求めるなんて、俺もお前も、どうかしている。

そもそもあの人が、俺のような気の狂った人間をこれ以上相手になどするものか。他人の尊厳に敬意を払わない人間を、軽蔑こそすれ、関わり合いになりたいなどと、思うはずもない。

俺との接触を禁じられているはずの立場で『手に入れてやる』などという非現実的なことをつぶやいた男は、指一本俺の体に触れることなく、影のように離れていった。

そして。

「……好きです。先輩」

楔のような嘘の言葉を残して、消えた。

俺は。

その場にうずくまり。

目の前から消えれば、死んだことと同じだと、俺を愛していない男のことを呪いながら。

声を上げて、号泣した。




【終】