襲来

頭上からでなく、顔で雨を受けるなんて、不思議な気分だ。

よろよろと持ち上げた腕で、印を組もうとして、それが最後のチャクラを使い切るだけで生存には何の役にも立たないだろうことが判断できたから、僕は静かにまぶたを閉じた。

木遁。

指は組みなれた印を結ぼうとしていた。

最期に、僕は木遁を使おうとしたのか。

同じ時代に生まれていれば、きっと初代様は僕だけの存在ではなかった。そして同じ里の他の人間に対するものと同じように、僕にも等しく慈愛と保護の腕を伸ばしてくれただろうか。

ざー…という確かで不確かな水の音は、僕の体に当たっては、霧散し始めた精神を浸した。

緩やかで、穏やかな、完全な闇に意識の全てを持っていかれる前に。

かさ。

小さな獣の足音を聞いた。

眠りは穏やかに訪れて、死した体は里に還ることなく別の生命の糧になるのか。

しかし、生きているうちに喰われるのはさすがにおもしろくない。

追い払おうと、緩慢な仕草で腕を上げ、体もやや横向きにして起こし、僕は瞳を開いて獣と目を合わせようとした。

最後の戦い。

現れたこげ茶の小さな犬は、僕の視線を受けて近づきつつあった足をびくりと止めた。

そして「間に合ったか」と人語でつぶやくと、たたたときびすを返して草むらに消えた。

知らずため息をついて、再び地面の上で弛緩した僕は、先ほどの出来事で妙に冴え始めた頭で気がついた。

犬は「間に合ったか」と人語を話した。

ではあれは、忍犬か。しかも味方の、木ノ葉の忍犬……。

「探したよ」

足音もなく僕の傍らに立った人物は、木ノ葉の暗部服を着ているようだった。

地面に転がって死に掛けている僕の狭い視界に最初は黒い履物ぐらいしか入らなかったが、その人物が膝をついて顔を覗き込んできたので全てが目に入った。

「……」

「ねえ、生きてる?」

これは、随分と……。

黄泉の国に召される前に、随分と綺麗な顔を拝めたものだ。

無造作に銀髪の後ろ側に回っている面は、よくは見えないものの木ノ葉の暗部のものに間違いない。

だが彼は……そう、一目惚れと表現してもいいほどに初見で囚われた美貌の主は、残念なことに性別は男だったようだ。しかもすぐに自分に医療忍術を使おうとする様子がないことから、その手の能力に乏しいことがわかる。

いや、体だけでも里に還ることができる。野垂れ死ぬことを覚悟した身としては、これ以上ないほどの僥倖だ。

「おい。しっかりしろ」

雨に打たれ続けた頬に暖かい手が乗り、口元をぬぐわれた。

ぼんやりした視界に彼の顔が近づいてきて、唇をふさがれ、苦い舌が僕の舌に絡んだ。

唾液で溶けたざらざらしたものごとごくりとのどの奥へと飲み込むと、長いくちづけからようやく解放された。

「……でも、いいです」

「なに?」

「嬉しいです」

疲労しきってこわばった頬を何とかゆるめて、笑う。

相手は困惑したのか動きを止めた。

彼の手は仰向けに倒れている僕の肩にかかっていて、体勢としては男を強請る女のようだ。性的な匂いなんて彼からはもちろん何一つ感じられないというのに、興奮した。まるで純情な乙女が無防備に僕の体の上に乗ってきたみたいに。馬鹿馬鹿しいけど、もう死ぬかもしれない最期の時だから、「好きだ」とわざと錯覚した。彼が欲しかった。自分のものだと錯覚したかった。

だから、人生で初めての下世話な冗談を言った。

「これで、床上手だったら言うことない……んですけどね……」

今考えたら、今わの際の言葉が『それ』になっていたかもしれなかっただなんて危ういとこだった。

「ま、生きて帰れたらな」

面を被りなおした男が僕の肩をかついで立ち上がったのはすぐ次の瞬間のこと。

僕は意識を失った。




* * * * *



遠くの方で、複数の医療忍者が慌しく走る音が聞こえる。

また誰か搬送されてきたのか。

ここは僕の病室で、ようやく数日前に集中治療室から出れたところだった。一般病棟は存外と色んな音がする。

うとうととまどろみながら眠くて仕方のない目蓋を再び閉じようとしたら、何の前触れもなく僕の病室のドアが開いた。

驚いて寝ていた体を無理矢理起こす。

「よっ」

思いもよらない見舞い客の姿を見て、僕は言葉を失った。

「体は大丈夫なの」

「おかげ…さまで……」

反射的に返事をしてしまったが、「そ」と目を細めて近づいてくる彼から目が離せない。

なぜここに、彼が。

あの時と同じ暗部服のままだ。

長い手足にすらりとした若々しい体躯。今日は面は腰にぶら下がっている。あれは、戌か。

未だ働きの鈍い頭の中に、何かのピースがかちりかちりとはまっていく。

戌。

銀髪。

左目の傷痕。

「は……っ」

「は?」

動けないまま、僕はごくりと唾を飲み込んだ。

はたけカカシだ。

暗部内で様々な噂の渦中にいる、僕など遠くの方から一度見たきりでしかない高名な先輩。

「思ったより元気そうじゃないの。あの時は今にも死にそうな顔してたのに」

「そ、その節は……」

どうも、と言いかけて、相手が自分の方をじっと見つめていることに気がついた。

「……」

長い。

沈黙も長ければ、こんな風にじっと見つめられている理由も思いつかない。

何か、変だっただろうか……と、自分の身なりをこっそり確かめてみるが、何の変哲もない患者服は特にどこかはだけている様子もない。

「あの」

注がれる視線と沈黙に耐えかねて口を開いた瞬間、はたけカカシはくすりと笑った。

「お大事に」

そうして、入ってきた時と同様に、そこに存在していたことが嘘だったかのような自然さでいなくなった。

しばらく呆然としていた僕は、束の間の邂逅で先輩が見せた仕草や態度を何度も何度も反芻し、そしてここに担ぎ込まれた直前のことも細かく思い出して、そして……。

はたけカカシが漏らした笑いの意味を想像して、羞恥にのた打ち回った。

ベットに縛り付けられている間中、彼のことが頭から離れなかった。




【終】