侵蝕―それを塗りつぶす感情―




彼がその決断をする前までは紛れもない同胞であったのに、今や『獲物』と化したその男を、テンゾウとカカシは追っていた。

闇にざわざわとうごめく森の中を、ハッハッと乱れた呼吸が追跡者から逃れようと必死に足掻く。

らしくない。木ノ葉最強の精鋭部隊、通称『暗部』に所属する忍びとしては、まったくもって、らしくない。

印を組み木遁忍術でその足を掬い取ろうとしたテンゾウを手で制し、隣を走るカカシがクナイを放った。

うっ、と苦痛にうめく声。

この視界の悪い中、正確に右足の腱を掻き切ったクナイが倒れた男の近くの木に刺さっている。

息ひとつ乱していないカカシとテンゾウは、かつての仲間の退路を絶つために二手に分かれて取り囲んだ。

特殊な能力者揃いの暗部の中でもさらに特別な、写輪眼持ちと木遁忍術使い。

逃げられぬことを悟った暗部装束の男は、面を外そうとしているカカシに向かって怒鳴った。

「もうごめんなんだよ! 俺は!」

いつでも術を発動させられるように構えたテンゾウの正面で、叫ぶ男に写輪眼がさらされた。

「このままじゃいつか死ぬ! 俺は死ぬまで里に飼い殺されて、使い潰されて犬死するなんてのはごめんなんだよ!」

「――――」

ピクリ、とその言葉の内容に反応したテンゾウを一瞥して、カカシの写輪眼の巴が回った。

生半可な幻術返しでは返しきれない強烈な瞳術が男の意識を奪い、その場に立っている者はカカシとテンゾウの二人だけになった。

本来抜け忍は、逃走しているその場で殺されても文句言えない立場であるのに、暗部の人間がそれをなそうとした場合、ほぼ確実にその場で息の根を止められる。

それは暗部に入隊できるほどの実力者を双方が無傷で捕獲することが難しいからであり、里抜けが実現した場合に漏洩する機密が里にとって脅威にもなりかねないからでもある。

その場合追い忍も暗部の者から選抜せざるを得ないのだが、カカシがその任に当たっていてこの男は本当に幸運だった。

他の者では、さすがにこれほど簡単に事を進めることはできなかっただろう。

後輩のテンゾウが男を担いで尋問部隊に引き渡した時、緊張感なく伸びをしているカカシと目が合った。

お互い面は外している。カカシの瞳が笑った。

「もし万が一お前が里抜けなんてしようとしたら、さすがにああ簡単にはいかないだろーね」

「・・・・・・里抜けなんてしませんよ」

やはりあの言葉に動揺したのを見られていた。

バツが悪くてわざと憮然とした表情をしていたら、カカシがくすくすと笑って「冗談だーよ」とテンゾウの額を小突いた。

小突かれた額を押さえて、カカシの紅い方の瞳を見る。

テンゾウはこの先輩がうちは一族でもないのにどうやって写輪眼を手に入れたのか知らなかった。

彼も自分と同じように、うちはの瞳をはめ込む実験体にされたのだろうか。

お前は、俺が殺させやしないから。

一面識しかない新人に当たり前のようにそう言って笑った人。

テンゾウは穏やかな中にどこか暗い陰のあるこの先輩をいつも観察していた。

しかし彼は、鈍感なほどに里への忠誠心に溢れ、ただ同じ里の同胞だから、とテンゾウに対する親愛の情を惜しまなかった。

「先輩こそ。もしあなたが本気でこの里を抜けようとしたら、木ノ葉の被る被害は甚大なものになるでしょうね」

誰よりも仲間を大事にするカカシにはありえないような、仮定の話。しかし殺戮に飽いた忍びの業の寵児が、何を考えるかなんてその外面からはわからない。

現に、同じ暗部の部隊長までも務めていたうちはの少年が、父母を含めた一族を皆殺しにしている。名門の出で忍びとしての才能にも恵まれ、さぞ愛しまれて育ったであろうに。人の心はわからない。

「しないよ。里抜けなんて」

先輩に対して不敬極まりない会話であるのに、まるで気にする様子のない気軽さでカカシが答えた。

抜け忍を捕まえたその足ですぐに次の任務地に向かいながら、テンゾウの前を歩くカカシが繰り返す。

「しないよ」

「・・・・・・」

それだけではテンゾウを信じさせるのに不十分であると思ったのか、強すぎるために時に同胞にさえ恐怖を抱かれる男は少しだけ微笑んで補足した。

「俺を生かすために大事な人が何人も死んだのに、俺が木ノ葉の忍びやめるわけにはいかないでしょ。ま、唯一の例外は親父だけなんだけど」

あの人は自分のためだけに死んだからねぇ。

口の中でつぶやかれた言葉を、確かに聞いてテンゾウは眉を顰めた。

「だから俺がいつか死ぬ時は、戦場なんだよ。きっと」

親父の分まで含めて。

明日の天気の話をするような口調でカカシは話し、テンゾウもただ黙って聞いていた。

そう。例えこの目の前の先輩であっても、忍びをやめるまでに生きていられる保証は何一つない。むしろ最後の瞬間まで、最も忍びらしく忍びとして死んでいきそうな人だ。足手まといの後輩やら部下やらを守って。

「テンゾウはどうなの」

「・・・ボクですか」

「うん。里に大事な人とか、いる?」

「・・・・・・いえ」

育んでくれた里に対しては、確かに捨てようとしたとしてもぬぐいきれないほどの愛着がある。

しかし生きてきた中で一番強烈な記憶は、あの忌まわしい収容所での出来事だった。

里のために死んだ『英雄』の孤児たちを、虫けら以下に扱ったことに対するこの里への不信感。テンゾウだけではない。他の死んだ子供たちに比べ、彼はむしろ幸運過ぎるほどに幸運だった。テンゾウだけが、あの狂気の研究の中から生き残った。

当時里には孤児なんて今よりもっとありふれていた。それこそ生き死にに関する不幸話なんて、この里に生きている人間全員が持っていた。そういう時代だった。

孤独から何とか脱しようと悪戯などで周囲の気をひく子供は至極健全な部類だ。実際にそういうガキ大将的存在の子供はアカデミーのクラスに一人はいた。

逆にテンゾウのように大人に対する不信感ゆえ孤独に閉じこもろうとする子供は里にとっては危険だったろう。

危険だからこそ、細やかな目で監視される。周囲の大人の白々しいほどの心遣い。特別あつかい。愛に飢えた他の子供たちの、何も知らないうらやましげな視線が、表面上のテンゾウの性格を決定した。

落ち着いて微笑む以外に、敵意をかわす術を持たなかった。

そんな自分に、大事な人など。

「ボクは、まだ・・・」

まだ誰も愛したことのない、まだ一人の人を好きになったことすらない幼子の心に流れ込んできた初代火影の記憶。

埋め込まれた細胞から侵食してきた記憶は、まだそれだけの感情の器を持たないテンゾウを混乱させた。

この里に対する相反する感情。

不信と、愛と。

初代火影の里を愛する大きな愛が、幼い少女の姿をした愛しい孫への大きすぎる愛情が、テンゾウの心を冷えさせる。

まだなのに。

まだ自分は誰も好きになったことすらないのに、と。

「震えてるよ。テンゾウ」

憐憫でも、欲を含んだ恋愛という名の支配欲からでもなく、ただ穏やかな目で事実を指摘したカカシをテンゾウは見つめた。

戦場にあって血にまみれているのに綺麗な存在。

ふいに襲ってきた衝動に逆らいきれずテンゾウはその腕をつかんで彼の身体を抱きしめた。

この人が欲しい。

唐突過ぎる衝動が自分でも恐ろしいぐらいに、この人が欲しい。

腕の中に閉じ込めた身体から、くすくすと忍び笑いが洩れ聞こえた。

「どうしちゃったの。まだ若いからいろいろ考えて怖くなっちゃったのかな」

歳なんていくつも違わないくせに、戦場での場数を踏んでいる者の余裕で抱きしめ返してきて、そして体温の低い手のひらでテンゾウの背中をぽんぽんと叩いた。

その感触を心に刻みながら、テンゾウはカカシを抱きしめ続けた。

振り払わずに抱きしめ返してくれる腕に免じて。先輩に対してこれ以上の不埒な真似を働くことなく、抱きしめる腕に力をこめたまま、今日はただ静かに目を閉じた。




【終】