じわり、




その噂はあえて黙殺してきていたが、年嵩の同僚から時折感じる意味深な薄ら笑いの正体がカカシ先輩の尊厳に関わるものだと知った時、看過することなんて出来なくなった。

「事実だよ」

問い詰めた時の先輩の笑い方は、何故だかひどく儚かった。

「ごめんな」

何に謝るのか。何が事実だというのか。

僕と出来ているなんて馬鹿げた憶測から面白おかしく噂されるぐらいなら、まだいい。

でも、任務で……。いや、例えそれが事実であっても、この人がそういう選択をしたのは性癖や欲とは違う、仲間の負担を見て状況を打破せざるを得ない自己犠牲の末のものであっただろうし、ましてやそれを茶化すように『寝取られた』僕の反応をいやらしく窺うなど同じ任につく忍びとして最低の行為だ。

「ごめん。何だか、テンゾウにも迷惑かけてるみたいだし」

「何を言うんですか。むしろ光栄です。僕でいいのなら、先輩のために盾にだってなんだってなります」

本心からの言葉に、先輩は複雑な表情をして黙った。

ああ。と後ろ手に頭をかき、保護すべき格下の子供を諭すような、優しい声で言う。

「お前にそういうこと望んだりはしてないよ」

「じゃあ、どういうことを望んでいるんですか!」

激昂して珍しく声を荒げた僕に、先輩は少なからず驚いたようだった。

でも、先輩の心は遠かった。

「本当に、何も……」

先輩がまた脱力したようにへらりと笑う。

最初から僕に頼ろうなんて思っていない態度だ。いや、そういうことを考えたことすらないのではないだろうかこの人は。

僕の必死の言葉なんて先輩にとっては他人事のように回避されてかわされる。それがわかっていても、言い募らずに入られなかった。

「もっと自分を大事にしてくださいよ。馬鹿な目配せをして先輩の価値が下がったと勘違いしながら喜んでいる輩にいいように言われるのは、僕が、我慢できない」

じゃあ、どうすればいいわけ、とは先輩は言わなかった。お前に何の権利があって煩く言うんだ、とも。

「俺の価値なんてもともとあってないようなものだし、別段下がってもいないよ。それに、俺も男だから」

無責任な陰口ごとき平気だ。生娘じゃあるまいし、と。

体のいい言葉で拒絶された、と思った。

僕はカカシ先輩にとって単なる暗部という組織の部下で、守るべき格下の子供で、対等どころか隣でほんの少し息をつけるだけの存在でさえないということを思い知らされた。

そもそも、僕は何を期待してたんだろうか。下衆なことを言われた言われていると騒ぎ立てたかったわけじゃない。先輩に事実を確かめて追い詰めたかったわけでもない。ただ「そうだね。ありがとう」と先輩が僕の言葉を受け取って肯定してくれればそれで気が済んだんだ。「ありがとう」? 違う。僕は先輩に感謝されたかったわけじゃない。ただ……。

その日のやりとりは、先輩との距離と彼から何も頼られることのない己への無力感とを感じた出来事として今でも鮮明に覚えている。

そして目の前には、彼が暗部を抜けてからは姿さえ見ることもなかった、数年ぶりに再会したカカシ先輩がいる。

教え子たちは意図せずして全員彼の手を離れてしまったそうで、先輩は単独でSランク任務や、ツーマンセルを組んだことのある僕のような現役暗部とたまに任務をこなしたりしていた。

打ち合わせや見舞いと称して再び先輩の病室に出入りできる立場になった僕は、世間話の拍子に、ふと彼が肌身離さず持ち歩いている十八禁書を見て尋ねた。

「ところで、実践の方は現役なんですか」

と。

年齢を重ねて随分と雰囲気も体つきもまろやかになり落ち着いた先輩は、僕の唐突な言葉に一瞬怪訝な顔をして、その後すぐに目を見開いた。

「お前、真面目な顔してなんてことを」

チャクラ切れして倒れてカテーテルとれたばかりの入院患者に言うことか? とぼやきながら、先輩は眉根を寄せて僕に剥かせたみかんを食べるために下げていた口布を上げた。

沈黙がまるで何かを暴く始まりのように思えた。

冗談に紛らわせて「そんな馬鹿なこと言うならお前もう帰れ」と言われるとばかり思ったのに、先に降参したのは先輩だった。

僕としてはそういうつもりではなかった。でも、かつて男と寝ていたことを揶揄されていた先輩が若干追い詰められた心境になったというのは僕の勘違いだろうか。

「お前がそんなこと言うなんてな」

誤魔化しもしない潔癖さが今の僕には痛い。

「馬鹿。ちゃんと女の人に相手してもらってるよ」

一瞬、まばたきをし損ねた。

「あ、でも、いい加減なことはしてないぞ。全然」

いいわけめいた口調で途端に饒舌になる先輩を見ながら、僕は笑うしかなかった。でも自分で、口元だけの笑いだと自覚していた。

貴方が男に抱かれていた頃、僕は確かに女を抱いていました。

でも先輩。

笑顔がはりついてしまいそうだった。

僕は、男を抱きました。




【終】