井戸を浸す毒




テンゾウが目を覚ました時、その家の住人らしき娘は枕元でうつらうつらしていた。

古い木造の粗末な家屋に漂う静寂と死の臭い。

現状把握のためにテンゾウが瞳を動かすと、娘は敏感にも気配をすぐに感じ取って顔を輝かせた。

「坊や、体は平気?」

体を起こしたテンゾウに、痩せた娘はひょうたんで作られた柄杓に入った水を差し出した。

テンゾウの視線がその水へと動く。

すぐには反応しないテンゾウの様子を見て、娘が自らに言い聞かせるような声音で囁いた。

「川のでも、あの井戸の水でもないから大丈夫」

傍目には綺麗に見える水を、伏せた瞳でテンゾウはただ受け取った。

「もう随分昔に枯れた井戸の底を、私が掘ったの。だから……」

頷きながら、テンゾウは思う。

その努力も無駄だと。

なぜなら、この村の水は、水源から汚染されているのだから。

死臭の漂うこの村で、動ける生存者は既に両指で数えられるほどになっている。娘は余所者のテンゾウにさえ一縷の生の望みを共有したかったのだろうか。

見慣れない装束を着て倒れていた見知らぬ余所者。それがまだ幼さを残す少年だったとはいえ、この警戒心のなさは一種異常だ。

テンゾウの暗部服は脱がされ、代わりに女物の着物を着せられていた。

あまり肉のついていないテンゾウの体はすっぽりとその着物に収まっていたが、さすがに裾の方は少し短い。歳はきっと十近くは違うのだろうが、背はテンゾウより娘の方がやや小さく見えた。十中八九、この娘のものだろう。

娘の顔をじっと見ると、娘ははにかんだ様に少し微笑んだ。

その腕には、既に赤い斑点が無数に浮かんでいた。

「お姉さんが飲んで」

渇きに渇き、死んだはずだ。

外部からの救援もなく緩慢に滅び行くこの村で、息も絶え絶えに生きている人間にとっては、『汚染されてない』と信じられるこの水は貴重なはずだ。

じきに干乾びる。

豊かな汚染された水の上で。

娘はそのことを理解しているはずだった。

チカリ。

暗く銀色の髪を光らせながら、音もなく戸口に狗の面を被った暗部装束の少年が立った。

それに気づいていながら何の反応も見せないテンゾウに、狗の面の目の穴から苛立ちを含んだ視線が突き刺さる。

その直後に乱暴な足音を立てて、まだ年若い身分の高そうな質のいい着物を纏った男が入ってきた。

万一の感染を防ぐためだろう。口布に覆われている声が興奮の湿り気を帯びながらくぐもった。

「ここにもまだ隠れていたか」

「ひ……っ!」

男の持つ刀を見て恐怖に引きつった声を上げた娘は、次に狗の面を取った少年の瞳を見るなり昏倒した。

花が萎れるように力なくテンゾウの脇に倒れ伏す。

テンゾウはまだ少年の方に顔を向けなかった。

刀を持つ男が興奮を抑えきれない態度で動かないテンゾウの褥に脅すように刀を突き立てた。

「女のなりをしているが、男だな」

顔色も変えず瞳を伏せたままのテンゾウを侮蔑すべく吐き捨てる。

「女ならば命乞いがしやすいと思うたか。卑怯な奴め」

「殿下」

刃がきらめき、テンゾウの瞳の焦点が男にひたと合わせられる。

素早くその前に少年が立ちふさいで刀を止めなければ、斬られる前にテンゾウは男を害していただろう。

「無礼な真似をするなカカシ!」

命拾いしたとも知らず、男が叫ぶ。

クナイを引き、カカシと呼ばれた少年は片膝をついた。

「これはこの村に潜入させていた我が里の者です。ご容赦を……」

ピクリ、とその虚偽の内容にテンゾウの眉が顰められる。

「ほう。この腑抜けがか」

一度振り上げた刀に血を吸わさずには収まりのつかない表情で男が告げる。

「それでは、そちらの女だけでも、苦しまぬようあの世に送ってやるか」

今度もテンゾウが動くよりカカシの方が早かった。

「返り血を浴びれば感染する恐れが……」

「またしても邪魔をするか。カカシ!」

「……私が殿下のお望みままこの場までお連れしたのは、見ていただきたかったからです」

抗争と報復の結果が力なき者達の上に降りかかる現実を。

だが、男はただ高みの立場から生と死を弄ぶことのできる己を確認したに過ぎなかった。報告でのみ聞く現実味のない屍の数を、自らの手でひとつふたつ直接増やすことに新鮮な興奮を覚えているに過ぎなかった。

敵に少しの情けをかけるだけの器もなかった。慈悲と嘯き、己の悦楽のために刀を振り回したいだけの感情しかわかなかったのだ。

「まぁ。よい。何もこのような穢れた病持ちを斬らずとも他に機会もあろう」

「……」

狗の面の下で、大国の駒となって働く者である少年は静かに瞳を伏せた。

自らの命に代えてまで護衛すべき男が戸外に出たのをすぐには追わず、未だ褥の上に座ったままのテンゾウを見下ろす。

「お前、いつまでそこに居るつもりなの」

声には若干疲れたような、きつい響きが宿っていた。

「そちら側の人間にでもなったつもりか。ここに留まったとて彼女と同じ運命を共にする者にはなれない。出ろ」

数秒ほどカカシはテンゾウの様子を見つめていたが、動かないことを見越していたのか、膝をつき床に畳まれて置いてあった暗部服をテンゾウの胸元に押し付けた。

「お前を保護して庇ってくださっている三代目のご意向を無碍にする気か」

『三代目』という言葉を聞いて突如テンゾウの瞳に激しい感情が宿り、押し付けられた忍装束を床へと跳ね除けた。

「嫌いだ」

「何?」

「お前なんか、嫌いだ。あんなヤツの命令に従って何でもするんだろ。僕は嫌だ。嫌いだ」

カカシは黙って立ち上がり、すっと能面のように冷たく無表情になった顔の上に狗の面を被った。

「とにかく部隊に戻れ。できることもしない、自分の場所で戦わないお前にそれを言う資格はない」

背を向けて言い、カカシは部屋を出て行った。

悔しげにそれを見送ったテンゾウは、つい先ほど自分が感情のままに跳ね除けた暗部服に目をやり、そして。

落ちている猫面を拾うために、立ち上がった。




【終】