捕食者の瞳




ほの暗い暁を背景にして鍵爪を外しながら、カカシ先輩が言った。

「ねぇ。オレ、発情してるんだけど」

普段通りの冷静な顔で見つめられて、一瞬自分の聞き間違いかと思った。

凄惨な任務の直後なのに、それをまったく感じさせないような穏やかな立ち姿。

暗部の人間からひとりの忍びに戻る儀式。ボクが面を外した時、カカシ先輩は既に面を下げていた。

あれだけ動いたのに少しも乱れていない暗部装束の腕の辺りを少し引っ張りあげて、そしてまたボクの瞳をみつめて呼ぶ。

「テンゾウ」

動かないカカシ先輩は、明らかにボクを誘い、そしてボクから近づくのを静かに待っていた。

でも。

そこに性欲の焔が隠されているなんて、とても信じられないような綺麗で穏やかな瞳。

先輩の真意がわからない。

どんな任務に就いても動けないほど雰囲気に呑まれたことなんてないのに、体が動かなかった。

潔癖なカカシ先輩。

ボクが知る限り、彼が任務仲間と寝ただなんて噂は聞いたこともないし、普段のその姿は性欲があるだなんて人として当たり前のことを想像させることすらないほど、神々しくて。

でも悲しいことに。尊敬や憧れはほんの少しだけ位置をずらせば、簡単に肉欲に繋がっていく。

急激にカカシ先輩の存在を性的な意味で意識したボクは、その感情の変化を彼に悟られないように心を落ち着けようとした。

カカシ先輩が見ている。

「あれ。やっぱりあんまり表情変えないんだーね」

可笑しそうに笑ったカカシ先輩は、ふと思案するように指を顎に当てた。

「じゃあ、テンゾウじゃなくて別の人間を誘ってみようかな」

思いもよらないことを言われてぎょっとした。

「そ、それはダメですっ」

「あ、やっと焦った顔を見せた」

喜怒哀楽の乏しい顔。歳の割りに老成していて、どうかすると可愛げがない。そう言われ続けてきたのに、カカシ先輩はそれをいとも簡単に崩してくれた。

ぐっと黙り込んだボクを、色違いの瞳が覗き込む。

「冗談だーよ」

そしてまたくすりと笑われて、ボクは動けなくなった。

「だって、男同士なのに、変でしょ?」

「・・・・・・」

カカシ先輩だったら、男同士でも変じゃないかもしれない。

そう思い始めていたから、妙な話から解放されてほっとしたような、残念なような・・・・・・って、残念?

「完全に日が昇る前に、里に戻ろうかテンゾウ」

ボクの心をかき乱すだけかき乱しておいて、罪作りな先輩は吐息ひとつくれることなく踵を返した。

それからだ。

ボクがカカシ先輩の前を走るのも、そして後ろを走るのも、どこか落ち着かない気持ちになってしまったのは。

施術の印を組んで言を紡ぐ唇にも。

握る刃を眼前に突き出して物理攻撃を受け止めるその腕にも。

何より時折ボクに当てられるその視線に。

悩まされた。

カカシ先輩の何気ない仕草や視線に、誘われている。支配されている。乱されている。

ボクの築いてきたボクという人格を。人との境界線を。心を。

「テンゾウ」

それでいて、先輩は決して自分から近づいてこない。

精神的領域は十分すぎるほど侵してきておいてくれて。

残酷なほどに綺麗な人は、ボクから奪いに来いと挑戦的に誘うのだ。

「テンゾウ」

今日も繰り返されるそれは、ボクの心の天秤を計っている。

感情が理性に勝り、徐々に先輩の方に傾いていくのを、艶な瞳でただ見ている。

「先輩」

自尊心や拒絶を恐れる気持ちよりも衝動が勝った時、ボクはカカシ先輩の腕をつかんだ。

綺麗に筋肉のついた身体を、俗な世界には相応しくないその身体を、衝動的にこの腕の中に閉じ込めた。

ボクに無理やりに抱きしめられた先輩は、余裕の笑みを絶やすことなく、そして背中に腕をまわしてきながら言った。

「やっと捕まえた。テンゾウ」

世界がカカシ先輩一色に染まった。




【終】