中忍になって半年。それはイルカにとって初めて任された単独任務だった。
任務の全容は知らされていない。ただ、それほど危険のない任務だと聞いていた。新米中忍のイルカでも十分に遂行できる、下忍と中忍だけで形成される手薄な形だけの警備の突破。しかも裏で話はついているから、深追いはされない、と。
からくりはわからぬままに草隠れの額宛をして、木ノ葉の忍びが護衛する火の国の大名の名代が乗る駕籠を遠くから窺い見た。
暑さのせいだろう。簾が時折半分ほど開けられることがあるが、その際に貴人の膝の上にある漆塗りの箱が、忍びの目にははっきりと映った。
灯火をともすほどには暗くはなく、だが十分に日が翳ったところをみて、イルカは呼吸を整えた。
そして、いざ、と足に力を入れた時、背後から声をかけられた。
「ねえ。何してるの」
「……!」
口を手でふさがれ、身体をもう片方の手で難なく拘束され、イルカは唯一自由になる瞳を動かして己を戒める男の存在を確かめた。
最初に、無機質で不吉な印象を与える、戌の面が目に入った。
次にはこの馬鹿力を発揮しているとは到底信じられないほどに細くて白い腕が続き、さらに肩口に蒼い人魂を思わせるような独特な形をした刺青を見た。
木の葉の暗部だ。
戦慄したイルカの耳に、まだ若い、男にしては少し高めの声が吹き込まれた。
「草隠れの忍び?だよね」
「……」
緊張感のない声の主の銀髪が、さらりと風に揺れた。
相手は木ノ葉の暗部だ。極秘任務中の身では、頷くわけにもいかず、そしてまた否定するわけにもいかない。
「アンタの任務はあの駕籠の中の人間を殺すこと? ……それとも、あの、箱が欲しいの?」
無反応を貫いて決して任務内容を悟らせてはならなかったのに、男の口から事も無げに出た『殺す』の一言に動揺して思わず眼球が揺れてしまった。
この男は暗部なのだ。日々他人の背後に回り、命を奪う。同じ忍びとはいえ、殺しを専門でやっている者とそうでない者とでは、明らかに心と技術の壁は厚い。
ふーん、と考え込むような声を背後から聞いて、イルカは冷や汗を流した。全てを話すしかない。今は極秘任務中で、草隠れの忍びを装ってあの箱を奪うところなのだと。それを知ってしまった以上、この暗部も里に戻ってから確認尋問を受けなければならないが、仕方がないと。
なによりその前にこの男に木ノ葉の忍びである証明を求められたら、木ノ葉隠れの里に住む者しかわからない事柄を話すしかないが、一体何を話せばいいだろう……。
暗部の男に口を塞がれた手を放してもらえる前に、もしかしたら命を絶たれるかもしれないという恐怖の中、イルカは静かに唇を動かし、言いたいことがあると意思表示をした。
それに気がついた暗部の男は小首を傾げて、ちらりとイルカの獲物の方に顔を向けた。
「俺が、とってきてあげる」
え?と問い返す間もなかった。瞬きする間に行って帰って来た男は、何事もなかったように悠然と去ってゆく駕籠を尻目に「はい。プレゼント」とイルカに漆塗りの箱を押し付けた。
「だから、今日からアンタは俺のものね」
「はぁっ!?」
大声を出してしまってからしまったと慌てて口を閉じたイルカの前で、男が面の下でくすりと笑った。
正気の沙汰じゃない。とにかく逃げようと漆塗りの箱を腹に抱えて後退を始めたら、がしっと強い力で腰をつかまれた。
さらに性的雰囲気をにおわす様な手つきで側臀部をなでられたら、嫌でも男の言っている意味がわかる。
「お、お、俺に、男の慰み者になれというのか」
「……んー。嫌なら、俺がアンタのモノになってもいいよ」
「待て、俺は木ノ葉の……」
全てを明らかにする前に問答無用で両足をすくわれ、拉致された。同時に紅い光が走ってイルカは昏倒し、次に意識を取り戻した時には既に木ノ葉の大門の下だった。
* * * * *
「この馬鹿野郎! お前のせいで俺の任務めちゃくちゃだ!」
非常識すぎる行動を見てしまったからか、暗部に対する幻想も畏怖さえも消え失せてしまっていた。
目覚めたイルカはすぐに男を怒鳴りつけ、渋る様子も意に介さず無理矢理受付所に引きずっていった。こうなったらとにかく任務失敗報告書を出し、早急に次の手を仰ぎ失策を埋めなければならない。
この上なく不機嫌なイルカとは対照的に、男はむしろご機嫌だった。その場に居合わせた三代目火影に「どういうことじゃ。カカシ」と叱責されても、お気楽に公衆の面前でふざけたことを言ったものだ。
「だって。どうしても欲しかったんだもん。他国の忍びだったけど、さらって囲っちゃえば問題ないかと思って」
この男が捨て猫か何かのように「欲しい」と言っているのは、もしかしなくても自分のことだ。他国の忍びを簡単にさらっちゃえばいいとのたまった男は、恐ろしいことにその後自分を洗脳か監禁でもするつもりだったのだろう。
任務を台無しにされた恨みを込めて戌面を睨むと、一瞬ひるんだようだが、すぐに生意気な仕草で横を向いた。
「それに、姿を見せるようなヘマしてないし」
しれっと言ってくれるが、そもそもが草隠れの忍びの姿で箱を強奪しなければこの任務の意味がない。
怒りが収まりきらず、ぎりぎりと歯を食いしばっていると、生意気な口を利いていた男が少し不安そうな声を出した。
「ねえ、イルカ。もしかして、俺のこと嫌いになった……?」
「……」
嫌いも何も、これで好きだという方がどうかしている。
返事もしないで黙っていたら、戌面の男はしゅんと項垂れた。
少し可哀相かな、と感じてしまった自分をイルカは救いようのない馬鹿だと思った。そんな態度をされると、どちらが加害者だかわからなくなる。
失敗した任務の挽回は自分にやらせて欲しいと三代目に頼むイルカの横で、戌面の男はしばらく黙っていた。手は別に打つからいい、事情はわかったから休めと三代目に言われて落ち込むイルカの忍服の裾をいきなり男がつかんだ。
「イルカ。ごめん。俺のこと嫌わないで」
「あ?」
火影とイルカのやり取りなどまるで聞いていなかったかのような唐突な男の言葉にイルカは面食らった。イルカはイルカで必死だったので、その間静かになっていた男の存在などきれいに頭から消えていたのだ。
男は戌の面を取り、素顔をさらした。そして悲壮な顔つきでこう言った。
「俺、男にどうこうされるのは絶対に嫌だったけど、あんたになら俺の初めてをあげる。だから俺のこと嫌わないで」
イルカの人生で、これほど驚いた瞬間はなかっただろう。
『俺』と言っているが、この暗部は女の子だったのか。しかも繊細な美貌は、まさにイルカの心臓を直撃した。
「ねえ、それでも駄目? イルカ」
滅多に拝めないほどの秀麗な顔と、生意気なくせに微妙な健気さに絆されてつい気持ちが傾きかけたが、苦虫を噛み潰したような渋面の三代目に気づいてはっとした。
自分で言うのは卑屈すぎるが、イルカにとって暗部のカカシは高嶺の花だ。釣り合いが取れているとはお世辞にもいえない。
「イルカ……」
返事をしないイルカの正面で、みるみるカカシの表情が曇った。
あ、泣く。泣きそう。
どきりとして三代目の方に助けを求めるような視線を送ったら、それを受けた里長はため息をついた。
「まぁ、友達から始めるのじゃな……」
三代目の口添えを得て、今にも涙がこぼれそうだったカカシの顔がぱあっと輝いた。
「カカシ。あくまで、友達じゃ。イルカが嫌がることはしてはならんぞ」
三代目はこくこくと頷いたカカシからイルカに視線を移した。
「イルカも、もしカカシが友達以上の不埒な真似を働こうとしたら、同胞だからという遠慮は無用じゃ。本気で抵抗してもよい。わしが許す。嫌なら、断るのじゃぞ?」
「……」
「イルカ?」
「俺が…断るんですか?」
念を押されてイルカが呆然と問い返すと、三代目は怪訝そうな顔をした。
「その、もしかして婉曲に…俺に断れと、言ってますか?」
「……お主がよければ、里は何も干渉はせんが」
「……」
額面通り受け取っていいのだろうか。結局、カカシに手を出すなと暗に釘を刺されたのかそうでないのかよくわからないままにその場を退出したら、その後の生活にもれなくカカシがついてくるようになった。
暗部の人間ってそんなに暇があるものなんだろうか。そう首を傾げたくなるほど、それこそ三日と空けずにイルカの家に押しかけてくる。
「ねえ、イルカ。次の休みには一緒に温泉に泊まりに行こう。いい所があるって、この前任務で組んだ先輩から聞いた」
しかもどこから聞きつけたのか、カカシはいつのまにかイルカの食べ物の好みどころか趣味まで把握していた。
「ねえ、イルカ。温泉だよ。温泉行こうよ」
男としては自然と湧き上がってくる邪な思いを悟られるのは恥ずかしかったので、イルカは散々渋ってみせてから了承した。そこの温泉宿に混浴はあるのかなどと、そんなことは口が裂けても聞けない。
ぶしつけでないように盗み見ると、その年頃にしては悲惨なほどに胸も膨らんでいる様子もないカカシは、温泉に行く日を指折り数えてはニコニコしていた。
「ねぇね、イルカは、どんな着物が好き?」
忍服ばかりで碌な私服をもっていないのだと言うカカシに、イルカは答えた。
「地が赤で蝶の柄の入った着物が好き」
いつも地味な色の服しか着ないカカシは、中性的な美貌と相まって時として男に見える。
カカシの笑顔が凍った。
「え? イルカはそういうのが趣味なの……?」
大げさにも青ざめたカカシに大きく頷くと、いつもは涼しげな目元が少し潤んだようだった。
「?」
ふるふるとやや震えていたカカシの様子を深く考えないで迎えた温泉の日。
カカシは健気にも羞恥心を堪えて若い娘しか許されない柄の派手な着物を着ていた。
「すっげ。かわいい……」
世辞なんか言えない性格のイルカが呆然として呟いたのは正真正銘の本音だったのだが。
その夜には男湯で衝撃の事実が明らかになったのだった……。
【終】